「あの人に聞かないと分からない」は、いつまで続くのか
4月の組織改編の時期になると、社内のヘルプデスクには決まって同じような問い合わせが集まります。「異動したのに新しい部署のデータが見えない」「先月まで使えていた画面が開かない」。
このとき、ベテラン担当者はすぐに調査の道筋を描けます。どのシステムの権限設定を見て、どこの反映タイミングを疑えばいいのか、頭の中に地図がある。ところが経験の浅い担当者は、そもそも「何を調べればいいのか」の段階で止まってしまいます。
この差は、知識量の差ではありません。知識の並べ方の差です。
中小企業では、この「地図を持っている人」がたいてい一人か二人しかいません。しかもその人が、あと数年で定年を迎える。事業継続の観点から見ると、これはかなり重い経営リスクです。
「マニュアルを作れ」が、うまくいかなかった理由
属人化への対策として、多くの会社が最初に打つ手はマニュアル整備です。ベテランに時間を取ってもらい、手順書を書いてもらう。
しかし、これが定着した例はあまり多くありません。理由は三つあります。
- ベテランは日々の対応で手一杯で、文書を書く時間が取れない
- 本人にとって「当たり前すぎること」は、そもそも書き出されない
- 書いた時点の環境を前提にしているため、システム更改のたびに陳腐化する
そして最大の問題は、手順書に書けるのが結論だけだという点です。「こういうときはこうする」は書けても、「なぜそこを疑ったのか」という思考の道筋は残りません。若手が本当に欲しいのは後者のほうです。
つまり、やり方が悪かったのではなく、残そうとしていた対象の切り分けができていなかったというのが実態に近いと思います。
ベテランの頭の中を、4つに分けてみる
日経クロステックに、この論点を整理した記事が出ていました。ベテランの暗黙知を次の4つに分解しています。
① 言葉・定義 社内用語の正しい意味。同じ「顧客コード」でも部門によって指すものが違う、といった類です。用語集やメタデータとして残せます。
② 関係・つながり どのシステムとどのシステムが連係していて、データが反映されるまでにどれだけ時間差があるか。オントロジー(概念の関係性の定義)として構造化できます。
③ 経緯・来歴 過去に同じ事象があったとき、どう対応して何が起きたか。対応履歴として蓄積できます。
④ 組み立てて判断する力 ①〜③を状況に応じて組み合わせ、調査の手順を設計する力。これは定型データにできません。
重要なのは、④の手前にある「判断基準」までは残せる、という線引きです。「この条件が揃っていればこう判断する」というルールは形式知化できる。しかし、目の前の状況からどの条件を拾い上げるかは、人に残る。
残せるものと残せないものが、はっきり分かれている。ここを曖昧にしたまま「全部マニュアル化しろ」と号令をかけるから、現場が疲弊して途中で止まるわけです。
残し方は、「業務の痕跡」から拾う
では①〜③をどう集めるか。記事が示す答えは明快です。ベテランにわざわざ書かせない。
すでに業務の中に残っている痕跡を使います。
- システムの実行ログ
- 設定変更の履歴
- 問い合わせチケット
- やり取りされたメール
これらをAIに読ませて構造化する。ベテランの追加作業はゼロに近くなります。
さらに面白いのが、AIとの対話ログそのものが資産になるという点です。担当者がAIに「この事象、何を確認すべきか」と相談すれば、何を調べ、次にどこへ進んだかという調査の過程が自然に記録として残ります。手順書には書き出されなかった、あの④に近い部分の断片がここに落ちる。
そして対応が完了したら、AIが記録の下書きを作り、人が補足・修正して確定する。それが次の対応で参照される。知識が回り続けるループになります。
若手にとっては、AIが「次はこれを確認しますか」と選択肢を示してくれるので、入力のハードルも下がります。
順番を間違えないこと
ここで一つ、強調しておきたい点があります。
先日、北陸のあるAIスタートアップの事例を取り上げました。従業員数十名で数十億円規模の売上を上げている会社です。同社は金属加工の職人の「経験と勘」をAI化して製品にしていますが、そこに至るまでに約7年かけています。加工会社を買収し、職人と向き合い、工具の選定から回転数、送り速度まで、一つずつ言語化してデータを積み上げた。そのうえでAIに載せているわけです。
順番が逆ではありません。AIを入れたら暗黙知が出てくる、のではない。暗黙知を出す仕組みを作り、そこにAIを載せる。
AIは強みを増幅する装置であって、強みの源泉ではありません。この前提を外すと、ツールだけ導入して何も蓄積されない、というよくある結末になります。
中小企業にとっての意味
私見を述べます。
中小企業にとって、ベテランの知識や技術の継承は、事業の継続性を維持するうえで欠かせないテーマです。人数が少ない分、一人の退職が業務を止める確率は大企業よりはるかに高い。
この部分にAIを使うことで、従来よりずっと効率的に形式知を残せるようになります。ベテランに文書作成の負荷をかけず、日常業務の記録から自動的に積み上がっていく。中小企業にとっては、これまで「やりたくてもできなかった」領域が現実的な射程に入ってきたということです。
そしてもう一つ、スキルの横展開にも効きます。一人が持っていた判断基準が全員から参照できるようになれば、担当者が変わっても品質が落ちない。属人化の解消は、実は少数精鋭という経営スタイルの前提条件でもあります。人数を絞れる会社は、知識が個人に閉じていない会社です。
今週から手を付けるなら
大掛かりな仕組みを作る前に、確認すべきことがあります。
- 痕跡が残っているか — 問い合わせ対応をメールや口頭だけで済ませていないか。チケットとして記録が残る導線があるか。
- 確定のプロセスがあるか — 対応が終わったあと、記録を確定させる担当と手順が決まっているか。書きっぱなしは資産になりません。
- 一番危ないのは誰か — システム間のつながりを一人しか把握していない領域を、まず特定する。全体を一度にやろうとしないことです。
「AIで暗黙知を継承する」と聞くと大仰に響きますが、実際の入口は業務の記録がきちんと残る導線を作れているかという、かなり地味な話です。号令ではなく設計。ここが問われていると思います。
出典
- 日経クロステック「ベテラン社員の頭の中を明らかに、暗黙知を構造化するデータ設計」(川上明久・畑山公美子、2026年8月27日) https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/03242/082500030/
- ビジネス+IT/SeizoTrend(2026年8月) https://www.sbbit.jp/article/st/186631
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